霊訓を受け入れる時期

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私は50代半ばで霊訓と出会いました。そしてシルバーバーチの言葉に惹かれ夢中で霊訓を学ぶようになりました。霊訓を目にして気に掛ける人と無関心の人がいます。その差は何でしょう。私は高齢者です。当然高齢者同士の付き合いが多くなります。誰もが長い人生を生きている間には、大変な苦労心労があったはずです。命にかかわる病気をしたり、経済的困窮に陥ったり、人間関係で裏切られたり、死にたいと思うことは1度や2度はあったと思います。そういう人生の中で「人間はなぜこんな苦しい世界に生まれてくるのか」「人間は死んだらどうなるのか」「あの世はあるのか」と疑問を抱く人と、何も考えない人がいます。その差はどこで別れるのでしょう。

 考える人は知りたいとの欲求によって本屋や他の宗教を探し回ります。そして霊訓と出会った時(実は偶然に出会うのではなく霊界の導きがあるのです)、感動を覚え、霊的に目覚めるキッカケになるのです。時期がきていれば夢中になって霊訓を学びます。そして更なる向上を願って、ネットを調べて読書会に導かれることになります。すべては霊界の導きであり配慮があったのです。しかし人生について深く考えない人が多いということは、大して苦労がなかったのでしょうか。知り合った人の話を聞くと、何度かの大きな手術を乗り越えたり、伴侶のDVから逃げてきた人、いまだに生活に支障をきたす難病を患ったり、家族に障害者がいたり、大変な苦しい人生が聞かれます。聞く側の私が苦しくなるくらいです。

 去年は伝道を意識した年でした。私は高齢者が何の備えもなく無知のまま次の霊界に渡るのが不憫でなりません。親しくなった数人に、救われるチャンスと思って「シルバーバーチの霊訓」の存在を、あるいは「人生について」「死について」「死後の世界について」話すことがありました。また私のブログを教えることもありました。殆どの人が一旦は興味を示し、話を聞いてくれたりブログを読んでくれたりしましたが、「良い話を聞いた」あるいは「信じられない」と思うだけでそれ以上の関知は望みません。なぜもっと知りたいと思わないのか不思議でした。ずっと考えていました。そしてやっと分かった気がします。

 皆長い人生の中での大変な苦労があっても、誰かがお世話してくれたり、相談に乗ってくれたり、頼れる人が傍にいたのです。また宗教に依存することで心が軽くなるのです。そのため魂の琴線に触れるところまで落ちることがなかったのです。幸いにというか、霊的には残念なことにどん底を経験する前に精神(心)が物質的次元で救われてしまったのです。その人は大変な苦労の人生だったと思っていても、霊的次元でのどん底まで落ちなかった・・それが人生の究極の探求心の芽を摘んでしまったのだと思います。そもそも宗教教義は間違いだらけであり、深刻な魂の病を引き起こします。そういう人たちは地上人生を台無しにし、霊的無知のまま次の世界へ赴くことになります。そういう意味でどん底まで落ちなかった人を気の毒に思います。

 地上人生において不幸のどん底を経験することは霊的覚醒に至るキッカケの一つです。大病にて、あるいは大事故で危篤状態に陥った時、昏睡状態になった時、誰もがその人間の精神(心)に関与することができません。本人の肉体能力は失っています。体力が落ちた時に霊能力が表面に表れ心霊体験をすることがあります。心霊体験は霊的なことに確信を持てる最大のチャンスです。この世的には不幸現象でも霊的には霊的成長の道に踏み入るチャンスを得たことになります。アメリカの脳神経外科医エべン・アレグザンダー氏は多くの患者の心霊体験を聞いて‶脳の錯覚“と思っていたことが、自ら大病を患い危篤になり昏睡状態に陥ります。そして幽体離脱体験をすることになるのです。氏は確信を得た霊的事実について本を書き、各地を講演して回ることになります。(プルーフ・オブ・ヘブン早川書房出版)要するに魂の窓が開くには並みの辛苦では達成できないことを証明しています。

 半面、若くして人生の半分に満たないうちに霊訓を手にする人もいます。しかし若くして霊訓にたどり着けたとしても、この世ならではの試練は当然あります。そういう人たちは前世の経験があと一歩で霊訓にたどり着けるまでの深いものだったのだろうと思います。そしてこの世で霊訓にたどり着くまでのあと一歩を、今世の試練によって達成することになったのだと思います。地上人生における苦難が魂の目を開く起爆剤になるのです。苦難の乗り越え方が霊的目覚めに繋がるかどうか、それが重要であることが分かります。前世・今世を通してすべての人に霊的覚醒のチャンスが訪れますが、霊訓を手にする人はほんの一部の人、時期のきた人に限られるということです。その現実を目の当たりにして、伝道に対する焦りを止めることができました。でも「シルバーバーチの霊訓」という重要題名だけは記憶に残って欲しいとの思いで、必ず手紙の中に記し、あるいはブログの題名「シルバーバーチの霊訓に学び価値ある人生を歩む」をお教えしています。

 また、この世の老若年齢で霊的成長度は測れません。霊的年齢は見た目では分からないということです。読書会の参加者の感想を聞いていても素晴らしく、全てのスピリチュアリストに対してレベルの高さを感じています。その中に私もいられることに感激と感謝の思いでいっぱいになります。「霊界の道具として生きることは、最も価値ある生き方です」というシルバーバーチの言葉があります。また「もっともっと多くの人材——これが私たちの大きな叫びです。いつでも自我を滅却し、犠牲を払う用意のできた、勇気と熱意と誠実さにあふれた男女が欲しいのです」とも言っています。読書会に導かれた人たちは霊界によって選ばれた人たちです。同志とともに道具の資質に磨きをかけて、ハイレベルスピリチュアリスト目指し、霊界の願いに応えてまいりたいと思います。

 *なおこれらの引用にあたってはスピリチュアリズム普及会の許可を得ています。